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書評続き

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年12月 8日(土)16時54分54秒
  『葬られた王朝』(著:梅原猛。新潮文庫)

P255 ~本居宣長~は、今まで軽視されていた『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が表れた神典であると考え~。
 ~津田左右吉~は~神話は、6世紀の末、おそらく欽明天皇の御世に、天皇家に神聖性を付与するために創作されたフィクションであるとしてしまう。

P271 ~養老律令において天皇の権力はいっそう弱められ、太政官の権力、すなわち藤原氏の権力が増大することになった~。

P285 タカミカヅチの交渉は成功し、オオクニヌシはこの国をニニギに譲り、自らは「黄泉の国」の支配者となり巨大な神殿に祀られることを条件にして身を隠す。そしていよいよ天孫降臨が始まる。

P315 ~宣長説は、(1)天武天皇が行った歴史書編集の事業と元明天皇の行った『古事記』撰集の事業は全く同じものである、(2)稗田阿礼はアマノウズメの子孫であるという二点に要約される~。
~天武天皇が重んじになった歴史書編集には~由緒ある身分出身の高官が名を連ねている。
~『古事記』撰集に携わったのは稗田阿礼と太安万侶のわずか二人である。

P319 天武帝が目指したのは天皇親政~
~元明帝は~「大宝律令」による政治を理想にされた。~大宝律令は藤原氏の独裁体制を合理化する律令であった~。

P329 『古事記』は、「神話の名において諸氏の勤務評定をしたようなもの~このような勤務評定を行い、かつ藤原氏に百点を付けるのは、権力者、藤原不比等等以外あり得ず~稗田阿礼すなわち藤原不比等と断定して差し支えない~。

P344 出雲大社建造の完成を霊亀2年におけば~表面上は元正、元明天皇の成し給うた大事業であるが、その計画者及びその事業の実行者は藤原不比等であろう。

P368 前代の王朝、出雲王朝のスサノオ、オオクニヌシこそ、不比等がもっとも厚く祀った大怨霊神なのであり、そして、その藤原不比等こそが、ヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人~。

P370 不比等は日本の律令制を完成せしめた巨人であるが、その律令制の基礎を作った聖徳太子とは大きな違いが二点ある。聖徳太子は新たにつくられるべき日本の国の理想を語り、日本人に守るべき道徳を提示した。~不比等~は~哲学や道徳のことは一切語らない。
 また、聖徳太子は~自己の子孫の栄達のことをあまり考慮しなかった。~不比等は~子孫が永久に権力を保持し、末永く繁栄する策を、時代の要請に応える政治的事業の中に巧みに忍び込ませた~。
 
 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年12月 8日(土)15時10分30秒
  『葬られた王朝』(著:梅原猛。新潮文庫)
P21 ~昭和63年~レヴィ=ストロースを招いた。彼は~「日向神話は~歴史的事実を反映しているのではないか」と語った~。

P36 ~出雲王朝の祖先神スサノオとヤマト王朝の祖先神アマテラスとは、禊によって生まれた姉弟~。

P37 ~アマテラスはスサノオの十拳(とつか)の剣を~吐き出すと~女神が生まれた。~スサノオが、アマテラスの八尺の勾玉を~吐き出すと~男神が生まれた。
 誓約(うけい)の結果は、スサノオの勝ちであった。スサノオは~「私が生んだ子は女の子だ~」と高らかに宣言する。~勝ち誇ったスサノオは~悪しき業を繰り返し~神々は~スサノオを流罪にし~出雲の国にやってきた~。

P45 ~スサノオは~まず~新羅の「曾尸茂梨(そしもり)」という所に降り立った~。

P56 ~強き悪しき越の豪族ども、すなわち「高志の八俣のをろち」に、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにした~。

P97 八十神たちに迫害を受け、スサノオから試練を与えられたオオナムヂことオオクニヌシは~強い人間に変身した~。

P115 ~オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績は、日本に医療をもたらした~。

P117 ~スクナヒコナは、酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。

P130 ~姫路藩は~佐幕の藩であったので~名もない港であった神戸を~県庁所在地とした~。

P143 ~内部分裂と~韓の国から来た強力な神の出現によって追い詰められたオオクニヌシのもとに、ついに国譲りの使者がやってくる~。

P144 『古事記』によれば、オオクニヌシは国譲りを承諾して、この国をニニギに譲って自らは稲佐の海に隠れたという。

P160 セヤタタラヒメが大便をしていたとき、赤く塗られた矢が彼女の陰部に突き刺さった。~その矢が~美しい男子になった~それは~オオモノヌシであった。

P186 ~『古事記』にある~越の支配からの解放が、スサノオによる「高志(こし)」のヤマタノオロチ退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話が、オオクニヌシの強引なヌナカワヒメとの結婚の話であろう。

P232 ~土偶は全て胎児を宿した成熟した女性で~全て必ず破壊され~中央に縦一文字に引き裂いたような跡がある~。

P234 ~妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります」

P251 ~弥生人の豪族にとって、鏡は縄文の霊を追い払う有益な呪器であった~
~神武天皇が、乾坤一擲の東征をして~日本国の大王となったとき、前代の出雲王朝の銅鐸に代わって、鏡を最高の宝器としたのではなかろうか。

 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年12月 8日(土)00時23分43秒
  『幕末史』(著:半藤一利。新潮文庫)
P288 ~権力を武力によって勝ち取ろうと意図している薩摩にとっては坂本龍馬は邪魔~大久保が見廻組に龍馬の居所を教えた・・・というのが私のとっている説~。

P296 ~容堂さんは~「土地を私有しているといえば、薩摩侯もそうである。予もまた同然なり。慶喜に罪ありというならば、提唱者の薩摩侯より70余万石を返上せよ~」
~容堂さんがもはや大声を発しなくなった時に会議は終わりました。

P303 ~徳川慶喜が先頭に立って出て行けば、幕府側が勝ったろう~慶喜は~錦の御旗の報せが届いた途端に、「私は江戸に帰る」と言い出した~。

P309 幕末に~自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して、日本国ということを大局的に見据えてきちんと事をあたったのは勝一人だった~。

P318 ~大久保利通という人は、これから戦争をしようと懸命になっている最中に、新政府が今後どうすべきかの設計図、青写真を頭に描いていた、稀有の人じゃないか~。

P361 歴史とは人がつくるものとつくづく思います。~勝と西郷、勝とパークス。それが戦乱と化しそうな歴史の流れを見事に押しとどめました。

P368 「この議(焦土戦術)ついに画餅となる。この際、費用夥多(あまた)、我大いに困窮す。人~我が愚なるを笑う。~然りといえども、もしかくの如きならざれば~我が精神をして活溌ならしめず~」(『解難録』)

P376 ~り牛(からうし)の毛~東海道をトコトンヤレで進軍中の西軍が江戸城に入るまでは被っているわけありません。

P417 このへんが西郷さんのでっかいところ~あんたがたはきちんとやってもらえばいい、それで何か起こった時は俺が全責任を引き受けるからと。

P420 司馬遼太郎~「明治維新は、士族による革命~勝利者も敗者も、ともに荒海にとびこむように平等に失業する、というのが、この明治4年の廃藩置県~」

P422 ~明治元年ごろの新潟なんてのは単なる小さな港町でした。まさに「長岡県」にしたくなかったと言わざるを得ません。

P432 ~西郷さんと大久保さん、岩倉さんらの間で~現状のまま手をつけず、留守中は余計なことをしないと約束した。にもかかわらず、西郷さんはそれをすべてゴミ箱へ捨て、独断でどんどん進めたのです。

P452 ~「貴官、それは何の真似だ。岩倉は、目の黒いうちは所信を曲げん」
 ジロリと睨んで言い放った~
~西郷さんの不思議さというか~生命もいらぬ、名もいらぬと、主義に殉ずる男には弱い~。

P482 たまりにたまった痛憤のマグマはもう噴火するしかありません。~西郷さんは、結局、「私の身体をあげましょう」というほかはなかった~。

P493 国策が開国と一致したのに、あえて戦争に持ち込んで国を混乱させ、多くの人の命を奪い、権力を奪取したのです。「維新」とカッコよく呼ばれていますが、革命であることは間違いない~。
 

怪傑おばさん頭巾さんへ

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年12月 7日(金)23時12分5秒
  いつもありがとうございます。
>漱石愛飲と聞いてまたビックリでした。
胃弱の漱石も、白牡丹は飲めたとか。
灘の男酒に比して西条は女酒とか言われ
甘口の酒が多いようです。
 

お嬢さんと結婚記念日!!

 投稿者:怪傑おばさん頭巾  投稿日:2012年12月 2日(日)00時30分41秒
  素敵な結婚記念日をおめでとうございました(*^^*)
お嬢様もサプライズで嬉しかったでしょうv(^^)

相変わらずお土産も美味しそうでした♪
「ひよこ(お饅頭タイプ)」は、今では「東京土産」にもなってますが、元々は福岡ですよね。

そういえば、「白牡丹」というお酒があるのにビックリ!漱石愛飲と聞いてまたビックリでした。
昔、銀座に「白牡丹」という高級袋物のお店があったのですが、ご時世か、いつの間にかなくなってしまいました。
年をとると思い出話が多くなるというのが理解できませんでしたけど、結局、隔世の感というのにとらわれるのだと最近納得しました(^_^;
 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年11月27日(火)21時52分24秒
編集済
  『幕末史』(続き)(著:半藤一利。新潮文庫)
P168 文久3年(1863)、慶喜がやけくそになって決めた5月10日の攘夷決行~長州は~近代的な武器にはかなわなかったのです。
~敗戦翌日~高杉晋作が奇兵隊の結成を提唱します。~侍でない人が戦士になった例はおそらく長州藩がはじめてではないでしょうか。

P174 ~薩摩・会津連合軍~8月18日、政権奪取のクーデタが実行された~。

 翌日は雨で、三条実美らの都落ちを~「雨の中の七卿落ち」と習いました~。

P179 ~慶喜が提案したのは、勝海舟からさんざん教わった政治の方法~要するに合議政治機構(正式名は参与会議)~。

P182 ~2月16日、慶喜はなんと大酒を飲んで酔っ払い、春嶽、久光、宗城の3人を~頭から罵倒したのです。

P202 ~むごい処罰はしないで、第一次長州征伐は終わったのです。
~俗論派の連中が天下を取り~吉田松陰の流れを汲む~人たちを~次々に処罰~したのです。

P205 「~一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。~」

P206 高杉晋作のたった一人の反乱、名演説に感動して~立ち上がったのが~のちの伊藤博文~結果的には総勢60余人が~叛旗を翻したのです。~キューバのカストロさんが革命を起こして成功した時に率いていたのが61人なんです。
 人間というのは60人も集まればある程度のことができるのかなと思わないでもありません。

P223 天皇家というのは~皇統が大事というのがまず来て、つぎに万民を苦しませたくない、この二つで結局「致し方ない」となるんです。太平洋戦争終結のときの昭和天皇もまたそうでした。

P228 龍馬は非常に闊達な人でああまり怒らなかったそうですが、生涯に怒ったことが二度だけあり、これがその1回であったとか。~
~本気で今度は西郷さんを怒鳴ります。

P238 寺田屋の~お登勢さんが当の龍馬に宛てた手紙です。~
~「~こんな人が幾万人捕手にかかるとも、其両人の人(龍馬と三吉)にはしょせんかざわずという事~」

P251 ~第二次長州征伐が失敗し~慶喜が~へっぴり腰であったことがばれるのです。

P256 10月27日~調停内部の反幕派、そして倒幕派の公家は全員追っ払われ~慶喜に~将軍宣下は12月5日です。
~12月25日~孝明天皇が突然亡くなってしまいます。

P277 翌14日には~長州藩にも「倒幕」の密勅が届き~薩長両藩に~錦の御旗の目録が正式に下賜されました。
~いわば偽の密勅

P279 ~密勅下賜と建白書提出が同じ日とは、皮肉もいいところ~






 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年11月26日(月)22時49分21秒
編集済
  『幕末史』(続き)(著:半藤一利。新潮文庫)
P83 橋本左内の構想とは、一橋慶喜を将軍とし、首相格に松平慶永、徳川斉彬、その下の大臣クラスに島津斉彬、伊達宗城、佐賀の鍋島斉正(閑叟)ら有力大名、その下の川路さんや岩瀬さんら有能な官僚をすべて抜擢して揃えるというもの~。

P84 安政5年4月~堀田さんが~22日、将軍家定に~進言します~が~井伊直弼を大老にせよと命じるのです。

P87 天皇家~らをことごとく大名が支配し、「政治のことについていちいちお伺いを立てる必要はない」という取り決めを、元和のはじめに幕府と朝廷の間で交わしてある~というのが井伊直弼の強い信念だったのです。

P95 ~橋本左内と吉田松陰の二人を安政の大獄で惨殺したことが~ここから幕末の歴史が大きく動き出す~。

P100 ~安政2年(1855)10月、長崎海軍伝習所ができ~一つ目は、各藩の青年たちにとって~「世界の中の日本」の姿が~自覚された~。
 二つ目に、西洋の合理主義的な考え方の必要性~を学んだ~。
 ~三つ目~能力による人材登用への気運がはっきり現れた~。

P123 ~文久2年(1862)~長州の中の攘夷派が叛旗を翻し~伊藤俊輔のちの博文、山県小輔のちの有朋たち~下級武士たちが登用されはじめる~。

P126 ~文久2年4月23日~薩摩藩尊王攘夷派のエース格の人たちが一気に撲滅されたの~が寺田屋事件~でした。

P132 文久2年(1862)~8月21日~いわゆる生麦事件です。~長州は権力への復活を試みる~ついひと月までは薩摩を中心とした公武合体論でまとまりつつあった京都が~長州を中心とする攘夷論で沸き立った~。

P150 ~上位がきちんとした理論でもって唱えられたことはほとんどなく、ただ熱狂的な空気、情熱が先走っていた~日本人が戦争から学ぶ一番大切な点は「熱狂的になってはいけない」ことである~。

P164 京都では5月20日~姉小路公知が~殺され~土佐の那須信吾と吉村寅太郎が「薩摩の田中新兵衛のものである」と証言し~薩摩は朝廷の信用を全く失い~京都の朝廷は長州藩の思うままになっていきます。
 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年11月22日(木)23時14分20秒
編集済
  『幕末史』(著:半藤一利。新潮文庫)
P12 ~荷風さんのすさまじい薩長罵倒の啖呵~
「薩長土肥の浪士は~原(もと)これ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」)
「明治以後日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為~」(『断腸亭日乗』)

P27 承知はしていたけれども大狼狽した、というのが日本のその時の実態でした。
 これは、日本人の通弊といってもいいのではないでしょうか。太平洋戦争の時もそうでした。

P34 ~近代日本は阿片戦争によってあるいは緒についたと言ってもいい~

P41 ~ペリーは~日本に関するあらゆる書物を読破し、この国とつきあうにはどうしたらいいかを徹底的に学びました。~高い鼻をへし折ってやれば必ずこちらの要求に乗ってくるだろう、とみたのです。

P42 これ、誰かに似てませんか。マッカーサーです。あの人は~たいへんな勉強をしてから敗戦後の日本にやって来ました。

P54 ~勝さんが主張した一番大事な点は、軍艦を買うこと~、同時にそれを動かす海軍の人たちを育てること・・・・それが日本を救うたった一つの道であるということです。

P67 安政2年10月2日に安政の大地震が起きました。~阿部正弘が~その座を~堀田正篤(まさひろ)(正睦(まさよし))に譲ります。

P68 ~翌安政3年7月21日~総領事ハリスが下田にやってきます。そして玉泉寺に星条旗を高々と立てて~日本の国に外国の国旗が立ったのは、これがはじめてだと思います。 ←「初めて」

P76 福井の殿様の松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))の片腕と言われていた橋本左内という学者の言葉を借りると、家定は「ボーッとして、片時もじっとしていることができない、~難しいことが起きるとすぐに泣き出す、一人前の男として認められない」~

P79 ~これを明快に行ったのが松平慶永さんで~
~国内政治のあり方を改革しなければ困難にまともにぶつかれない。そのためには(1)英明な君主を立てる、(2)あらゆる人材を登用する、(3)軍隊のあり方を改革する・・・・この三つが不可欠である~。

 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年11月21日(水)21時55分2秒
  『指揮官たちの特攻』(城山三郎。新潮文庫)
P19 「整備の人たちがよくやってくれるから、俺たちは安心して飛べる。整備の人たちを大切にしなくちゃ」
 というのが、これまた口癖であった。

P20 昭和16年の年の瀬も押しつまった頃~久しぶりに恵まれた元気な男児が可愛くてたまらず、寒い季節なのに、つい庭へ抱いて出て、風邪をひかせ、それが急性肺炎に。

注 高橋は医師から特効薬を航空隊から持ってきてほしいと頼まれたが「一本たりとも私するわけには」と断り、輸血の願いも「私の体のすべては陛下に捧げたもの」と断った。

P163 とにかく、味方の命を救うのが、アメリカ軍なのか。
 同じ搭乗員というのに、こちらは命を捨てることだけが使命。

P172 ~幼な妻のこの先が気にならぬわけがない。
<唯、保子も若年にて世の荒波を知らざれば、手を取りてご指導下され度候。~>

P182 14日はまた混乱の一日であった。~夜には~「対ソ及対沖縄積極攻撃中止」の命令が、大分~にも伝えられた。
 宇垣はそれを承知で、まるで反撥するように翌日のための出撃命令書を書かせた。

P197 中津留機とその列機が、とっさの間に~番外の目標に突っこんだことで、日本は平和への軟着陸ができたといえるのではなかろうか。

P212 ~明がその最期まで思い出しては口にしていたのが、
「宇垣さんが一人で責任をとってくれていたらなぁ」
というつぶやきであった。
 

書評

 投稿者:石野陽虎  投稿日:2012年11月21日(水)21時27分5秒
編集済
  『影法師』(百田尚樹)
P20 「お前の父は三人を相手に奮戦した。まことの侍だ。その侍の子が泣くな」

P71 「お前は昔から、何も星がったことのない子です。ものに未練を残したことは「一度もありません」

P76 「~勝ちを得るためには、まず自分の命を投げ出すところから始めなければならない。不惜身命・・・剣の極意はそこにあるのではないか。~」

P157 「人の世はつくづく皮肉なものだと思う。才はそれを必要とする者や欲する者に与えられるとは限らない。~」

P372 二十二年前のその日、滝本家老が勘一を殺すために島貫を放ったことを、何らかの方法で知った彦四郎は島貫を追ったのだ。~
 彦四郎は滝本の目を欺くために、白昼堂々わざと婦女に狼藉を働き、恥ずかしさのあまり逐電したと見せかけたのだ。

P385 「必殺の居合が空を切ったことも初めてなら、剣戟で敗れたことも初めてだった。今、振り返っても、奴の見切りは神業だった」

「奴は~刀を鞘に納めると、こう言った。・・・・名倉勘一は茅島藩になくてはならぬ男~」

「貴公は、あの男の申す通りの男だった。~奴もまた影のように生きた。しかし奴は儂と違い、人を生かした。磯貝彦四郎・・・・あれほどの男はおらぬ」

終章 P5 「俺は、勘一から友として打ち明けられた。みねが好きだと。今更・・・・俺もそうだ、とは言えぬ」
 みねは心の中で泣いた。その一言で生きていけると思った。

P7 彦四郎様、とみねは小さな声で呟いた。
・・・・心からお慕い申し上げておりました。
 これまで心の中でさえ言ったことのない言葉だった。そしてその言葉を吐いたことを彰蔵に詫びた。
~空を見上げたみねの体を、晩秋とは思えぬ明るい陽光が温かく包んだ。
 みねは、彦四郎が今、自分を抱いたと思った。
 

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